2022年もあっという間に一ヶ月が過ぎようとする1月末に、今年も義父が我が家の梅の木の剪定に来てくれました。(昨年の剪定の様子はコチラから)
昨年はもう何年も手つかずで野放図状態だったところからの剪定でしたが、
今年は昨年からのつながりで剪定がスタート。
その年次計画の剪定の違いが繊細で、とても興味深かったです!
ふと、教員時代に、卒業式の時に思い描く未来像から逆算して、1年生、2年生、3年生と指導計画、指導方針を立てていたことを思い出しました。
命を育むということは、本当に長い長いスパンと広い視野のもとに今この瞬間のお世話が決まるのだなぁと、改めて腑に落ちる実感がありました。





また今年も私は枝の切り口にボンドを塗る係!それから、切り落とした枝を拾い集めて、脚立の足場を整える係でした。
が、義父の手元を観ているのが楽しくて、「自分だったら次はどこに鋏を入れるだろうか?」と考えながら、時々義父が教えてくれる剪定の基本ルールもスマホにメモしながら、完全に手が止まっていました(笑)
上下の枝の重なりを観て、日当たりや風通しが良くなるように枝を「抜いていく」のですが、どんなに説明されてもどの枝を切ればいいのやら、私には全く見通しが立たないところ、義父が抜いた一枝によって空間の広がりが劇的にすっきりと整い、それはもう「梅が心地良さそう!」としか表現できないのです。
昨年も教えてくれた「佇まいが美しければ、大抵(そのやり方は)間違ってない」という言葉。昨年1年間の中で、様々な場面で思い出す、農作業だけに留まらない尊い教えでした。
「美しいとは、どんな状態なのか?」も度々考えました。
また「どうしたら(梅の木に)喜ばれるか?」という視点は、仕事をする上で「相手にとって何が喜ばれるか?」という本当に大切な視点へとつながります。
2021年の一年間、コロナ禍にあって朗らかに集うことがなかなか難しい中、また気候変動による経験則が効かない農作業の中にあって、私自身はいつも自分の体力的なしんどさと、届けられないもどかしさ、悔しさばかりが募り、作物や参加者のみなさんにどうしたら喜ばれるか?という視点をもつ心の余裕がありませんでした。

一緒に作業する中で、義父は切った枝を支持棒にして、私を脚立に登らせ、支持棒で解説しながら私に鋏を入れさせてくれました。
やってみせ
言って聞かせて
させてみて
誉めてやらねば
人は動かじ
山本五十六
さらに、翌日から残っている梅の剪定を一人でやってみると何気なく言った私のひと言を聞き逃さず、お手本となる一枝を残してくれていました。
義父の教えを忘れないうちに、私の初剪定スタート!




来年の剪定に向けて、きっと一年間経てば「白紙」になってしまいそうなので、備忘録兼ねてbefore&afterを載せておきますね。
夫は自宅の仕事場から梅畑にいる私を様子見してくれて、「脚立の置き方がなってない」「あの体制は危ない」などアドバイスをくれました。全くやり慣れていない作業に、翌日はびっくりするほど筋肉痛でした(汗)
それでも私なりに「どうしたら喜んでくれるか」考えて、なんとなくそれなりにスッキリした梅の木を見ると、一枝一枝が可愛く思えてくるから不思議です。

「手をかけてあげる」「時間をかける」というのは愛そのもの。
梅の木の剪定を通して、義父から手渡すようにとても大切なことを受け継いだ思いがします。
また来年の剪定が、今から楽しみでなりません。