【レポート】畑とつながる台所〈大根・さつまいも〉

2020年11月28日。「畑とつながる台所」シリーズの大根とさつまいもの会を開催しました。

午前中はさつまいもの収穫から。

この畑は私たちが使わせてもらうようになって2年目の畑です。まだ土づくりが始まったばかりで、掘るのにはだいぶ土が硬い状態。

芋が途中でポキッと折れないように掘るのは発掘作業並み。見事な「発掘」によって、芋が土の中でどんな風に根を張っているのか観察することができました。

収穫後には黒マルチの回収まで一緒に作業しました。

その中で黒マルチをする効果と脱プラスチックについて、マイクロプラスチックにまで話題が広がりました。

黒マルチを回収する手間を体験しながら、プラスチックのことについて自分ごととして感じることができました。

収穫後は保管のためにさっと水洗いをして土を落とし、陰干し。

次は畑で大根の観察。

畑にある姿そのままを見ることは、食べ物を大切にいただく気持ちにつながるポイントだと思います。

採れたての鮮度を味わうためにまずは一本を収穫。

部位別の味の違いも味わってみました。

収穫したてだと、葉を切り離したときに切り口から水分がじわっと滲み出すんです。

大根の瑞々しさは大根が生きていた証です。

また我が家の切り干し大根の切り方、干し方のコツもお伝えして、みなさんに体験していただきました。

また採れたての大根葉で「菜飯」の作り方をデモでご案内しました。

新鮮で、素材の味そのままが美味しいことがわかっていれば、味付けはごくごくシンプルで十分に美味しく、かえって手を加えすぎて素材を邪魔しないような「引き算」のレシピを心がけていることをお話ししました。

さぁ、食卓へ。

大根尽くしのシンプルご飯です。

さっきまで畑にあった大根が、今さっき台所で料理されて、目の前の食卓に。

特に大根ステーキのレシピで盛り上がりました。お土産に持ち帰る大根で是非やってみてくださいね!

午後は、まずは薪ストーブで焼き芋の準備。

さつまいもは収穫してからしばらく保管しておくことで糖度が上がります。

ですので、収穫したての芋と、我が家で収穫して保管しておいた芋を比較するために3本ずつ。

焼き芋が焼けるのを待つ間には、各自が持ち帰るための大根を収穫です。

今年は芽生えてから初期の段階でシンクイ虫と根切り虫に喰われて、手で取り除く時期がありましたが、その後は順調に成長してくれました。

昨年も我が家で大根を収穫した方は「昨年よりもずいぶんと今年は大きいね」と手ごたえの違いを感じてくれたり、大根の収穫が初めての方も新鮮に手ごたえを感じてくれていました。

あら、セクシー大根!我が家の大根は股根は少ないんですけどね(笑)

土から引っこ抜いた瞬間に、赤子を腕に抱くようにして「あぁ、なんかとても愛おしいです!」と感嘆の声をあげられた方がいました。

食べる食材が畑にある姿を眺め、自分の手に収穫の手ごたえを感じ、口に入るまでの経過も見て味わった直後の、本当に自分の実感として溢れ出た感覚は、何より力強く、鮮烈な学びになることと思います。

さぁ、焼き芋は焼けたかな?

庭木の葉をほとんど払ってしまうような木枯らしが吹き荒れました。

焼き芋を抱えて室内にて、今日一日を振り返りながら味わいました。

夏にじゃがいも収穫の会に参加してくださった方が、夏野菜の色鮮やかなエネルギッシュさと、根菜の土の下で根を張る生命力の違いについて話されたのはとても印象的です。

季節によって畑の様子が異なります。気温や空模様が季節によって異なるように、畑にも、そこに育つ野菜にも季節感があります。

その季節感を思いながらの料理は、豊かな食卓につながる「調味料」なのかもしれませんね。

食べるということは、単にお腹を満たすだけではない、心までも満たして養うのですね。
でもそれは料理教室などで「教わる」ことではなく、何か書物で得られる「知識」でもなく、自分の足で畑の土を踏みしめ、自分の手で収穫し、畑を台所と食卓がまっすぐにつながることを肌で感じ、自らの内側から湧きあがるようにして「感じとる」ことなのだと、私たちは考えています。

人が生きる上で食べることは必須です。食べることを大切にすることは、生きることを大切にすることと同義です。生きるための営みとして連綿と続けられてきた「食」を通して、どんな状況にあっても、どんな時代や環境にあっても変わらない普遍的な豊かさを、今この時こそ見出せるのではないかと思います。

ただシンプルに収穫の手ごたえに喜び、「美味しいね」と微笑みかわす食卓を囲みましょう。
どうぞ畑に足をお運びくださいね!

感染症予防対策のガイドラインにご理解ご協力くださったみなさん、ご参加ありがとうございました。

不思議と「青」率高めでしたね^^

あの日の穏やかに満たされた余韻は、今も心を満たしています。