私のお米づくり2017

2017年のお米づくりも無事に終わりました。

籾摺り、精米したお米を手のひらですくい上げたら、
一粒一粒がキラキラしていて、
「あぁ、今年も無事にお米ができた…」と実感できて、安堵の涙が溢れました。

今年の春まだ浅い、寒さが残る早春に、今シーズンの作付けや、様々なイベントや活動のコンセプトを夫婦で話し合う日々が続きました。
悩んで、意見交換しながら、時にぶつかり、自分の目指す方向性が見えなくなったりして、今振り返るとしんどい時期でした。

中でも田んぼをどうやっていくのか、なかなか結論が出ずに、そうこうしていくうちに土づくりの準備を始めなければならない時期になり、「走りながら考える」ようにスタートしました。

水が漏れてしまう畔の「治水工事」をしたり、
冬の間につくってしまった雑草が耕す機械にはさまらないように、手で拾い集めたり。
「代掻き」よりずっとずっと手前から始まる準備をしながら、一歩ずつ小さな工程を歩んできました。

私にとっては4回目の今シーズン。
家から田んぼに通うのが近くなり、
いつの時期にどんな作業があるのかが身体で把握できるようになり、
やっと能動的に動けるようになったと実感しました。

毎日の水見も、
草取りのタイミングも、
天候と体力との相談も、
田んぼとそれ以外のライフワークバランスも、
旦那さんとの役割分担も、
やっと4年目にして「見える」ようになりました。
少しずつ自分の頭で考えることができるようになりました。

いつの時も「自然」は偉大な先生です。
稲、土、水、お日様、数限りない小さな生命たちを含めた「田んぼ」という先生は、
時に物言わぬ赤児のようで、
時に容赦ない厳しさをもった父性のようで、
時に全てを許し、包み込むようにして見守る母性のようでした。

稲に触れ、
雑草に触れ、
様々に動き回る虫たちの姿を眺め、
泥の感触を長靴越しに感じ、時に全身に泥はねを浴びながら、
水温や気温を肌で感じ、
水面を、稲をわたる風を感じ、
物言わぬ稲たちの声なき声に耳をすませ、
対話し、集中し、おろおろしたり、ヤキモキしたりしながら、稲と共に育った4ヶ月間でした。

稲を育てているのか、稲に育てられているのか?
たぶん後者(笑)
稲の周りであたふたと、良かれと思ってお世話しつつも、結局は稲の生命力で育ちゆくのを信じて、見守るのに尽きるのです。

どんなことにも光と影があり、
どんなことも陰と陽がバランスしていて。
お米づくりにも、数え切れない「大変なこと」があるけれど、それ以上に楽しく、深い「喜び」がある。
今シーズンは、その「喜び」の方を、全身で、心身ともに味わうことができました。
(3年目まではあまりに必死で、余裕がなくて、「大変なこと」の方ばかりが心身に堪えました)

一粒一粒キラキラする新米を炊いて、噛みしめて、
旦那さんと「今年も美味しいお米だね」と一緒に味わい、
心の底から、お腹の底から幸せが湧き上がるようでした。

今うちのパントリーには私達が一年間十分に食べていけるお米たちが蓄えられていて、
お米の隣では自分たちで仕込んだ手前味噌が美味しく仕上がっていて、
「たいていのことがあっても生きていけそうだなぁ」と思える、どっしりとした安心感があります。
地に足がついた、逞しい「生きる力」だと実感します。

そして、たくさんの生命のつながりに「生かされている」感謝があります。

「暮らしの田んぼ」とは、

自分たちが食べるお米を自分たちでつくること。

イベントではなく、

ハレの日だけでなく、

毎日の、淡々とした日常の営みのひとつ。

でも、山梨へ来る前の私は、食物はお金と交換の「買う」ものでした。

消費ではなく、自ら生産する、それも「主食」となるお米をつくるということは、

「お金とは」「働くとは」「生きるとは」という概念を根底から変えることでした。

「暮らしの田んぼ」は計り知れないほど多くの恵みと学びを私にくれました。

夫婦二人での暮らしの田んぼ。

たくさんのお陰様に支えられてきました。

本当にありがとうございました!

今シーズンのカタチがベストだとは思っていません。

でも今の私達にとっては身の丈をわきまえた、精一杯のカタチでした。

また来シーズンも私達らしく、無理なく、「暮らしの田んぼ」を営むことができますように!

稲に

たくさんの生命に

いただきます。

ありがとう。

ごちそうさま

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